牛タンといえば当ブログでも度々取り上げている焼肉の定番メニューの一つ!
以前牛タンの発祥の地について調べた記事でもご紹介しましたが
「牛タンと言えば仙台!」というイメージは結構大きいですよね。
そんな仙台牛タンですが次なる疑問が一つ。
じゃあなんで仙台の牛タンって有名なの?
私も最初は「宮城県って仙台牛とか有名だしその流れで誕生したんじゃないの?」
なんて思ったりしていたのですが
どうやら仙台の牛タンの歴史の中で仙台牛の占める割合はほぼゼロのようです!
信じられないかもしれませんが仙台の牛タンは大半を
アメリカを始めとした海外産が占めています。
「え〜!それじゃあ仙台の名物じゃないじゃん!!」って声が聞こえてきそうですが
そう単純な話では終わらないのが仙台牛タンの奥深いところ。
この記事でわかること
1.仙台牛タンを始めたのは誰?
2.仙台牛タンの大半が海外産なのはなぜ?
3.海外産が大半なのに牛タンが仙台名物になったのはなぜ?
海外産使ってるのに仙台で「牛タン焼き」が名物ってどういうこと!?
そんなあなたには、当記事が参考になりますよ。
ぜひご覧ください(`・ω・´)ゞ
生みの親は「佐野啓四郎」さん
仙台牛タンが誕生したのは昭和23年。
太平洋戦争が終結し、日本が復興に向けて歩み始めた時期でした。
生みの親は「味太助」の初代店主「佐野啓四郎」さん。
牛タンの旨さのとりこになり、試行錯誤を重ねた自慢の一品が「牛タン焼き」でした。
この方を語らずして仙台牛タンは語れないといえるほど重要な人物です。
昭和20年代といえば戦後の混乱期。
仙台市内も例に漏れず失業者であふれ、慢性的な食糧難に加えて、喧嘩や騒動が耐えない物騒な時代です。
当時仙台市内では手軽に開業できることもあって焼き鳥屋は大人気で、多くの店舗が存在していました。佐野さんも当時は和食の職人として、焼き鳥メインの飲食店を経営していたとされています。
ただ当時は食糧難ということもあって在庫が安定しなかったようで
焼き鳥屋といっても鶏肉だけではなく、豚肉や牛肉など、様々な素材を焼き料理として出していたようです。
そんな状況の中、職人として腕をふるっていた佐野さんにはある悩みがありました。
それは焼き料理は調理方法が簡単なので、ヒット商品を出しても、周りのお店にスグに真似されてしまうことでした。
「誰にも真似のできない自分だけの料理を造りたい!」
それが仙台牛タンを生み出す原動力になりました。
そんな佐野さんが知り合いの洋食屋でタンシチューと出会い
牛タンの魅力にひかれたのは運命だったのかもしれません。
佐野さんによる「牛タン焼き」を生み出す為の試行錯誤が始まります。
しかしそれは困難の連続でした。
まず「牛タンそのものが手に入らない」
一週間かけて宮城県内や山形へ買い出しに行っても
牛タンは10本も集まらなかったと言われています。
また調理工程も困難を極めました。
牛タンの皮を剥くのは難しく、手には生傷が絶えなかったそうです。
佐野さんは一人作業場へこもり、牛タンの切り身の厚さ、包丁の入れ方、熟成期間、塩の量、塩の振り方、炭火の火力、焼き加減など、あらゆる角度から研究を重ねました。
そして試行錯誤の末、ついに「牛タン焼き」が誕生したのです。
牛タン焼きは大評判となり、後に佐野さんの下で修行した職人さん達が独立したことで、仙台に牛タン専門店が増えていき、仙台名物となる下地が出来上がっていきました。
佐野啓四郎さんがいなかったら「牛タン焼き」は仙台名物にまでなってなかったかもしれない。
まさに功労者と言えるでしょう!
海外産が多い理由は「圧倒的な供給量不足」
さて「牛タン焼き」が仙台名物になった別の理由を話す前に
ここで仙台牛タンの大半を海外産が占める理由について触れておきたいと思います。
その理由として大きいのが「供給量不足」です。
1頭から取れるタンの量はだいたい1.5〜2kg程度。
その中でもスジや脂などを除いた可食部分は約70%で1〜1.5kg程度。
これは一般的な焼肉屋の分量に換算すると10〜20人前程度にしかなりません。
その為、仙台牛どころか国産牛100%にしたくても出来ないというのが正直な所なのです。
仙台の牛タンは全国各地から出張で訪れたサラリーマンによって広まったという話もありますが
もし仙台牛100%で構成されていたとしたらとてもじゃないけど高すぎて彼らが気軽に手を出せるものじゃなくなっていたことでしょう。
海外産なのに「牛タン焼き」が仙台名物にまで上り詰めたワケ
さて供給量不足から海外産の牛タンを使用せざるを得なかったことはわかりましたが
ここである一つの疑問が生まれます。
「じゃあなぜ牛タンは仙台名物と言われるほど有名になったのだろう?」
もしこれが青森県の「大間のマグロ」のように地元の名産品を使ったということであればまだわかりますが、海外産ということであれば別に仙台である必然性もなさそうな気がします。
極端な話、東京や大阪の名物になっててもおかしくはありません。
海外から輸入することを考えると東京や大阪の方が立地的には有利とさえ言えるかもしれません。
では仙台牛タンが仙台名物たり得た理由は何だったのか?
それは仙台の牛タン専門店が「一般的な焼肉屋で出されている牛タンとは全くの別物だから」です。
もう少し詳しく見ていきましょう
使うのは全体の約半分だけ!?
通常、牛タン専門店と呼ばれる店で出される「牛タン焼き」に使われるのは、
原料である牛タンのうち、柔らかい箇所だけに限定されています。
先ほど牛一頭から取れるタンの可食部分は1.5kgという話をしましたが
なんと「牛タン焼き」で使用されるのはその中でも半分程度しかありません。
タンの中でも硬い部位とされるタン先を使用せず、「タン中」や「ミドル」「タン元」と呼ばれる柔らかい部位を厳選して使用しているのが「牛タン焼き」なのです。
「仙台の牛タン焼き」と「焼肉屋のタン塩」は全くの別物!?
仙台の「牛タン焼き」が厳選した部位を使っていることはわかりましたが
もう一つ、一般的な焼肉屋で出される「タン塩」などとは決定的に違うポイントがあります。
それは「仕込み」といわれる熟成作業を行うことです。
これは原料である牛タンをスライスした後に数日かけて行われる工程で
温度管理から湿度管理、熟成期間にいたるまで丁寧に管理されており
それはさながら「手造りの日本酒を醸造しているようだ」と形容されるほど繊細な作業になります。
この仕込み作業はお店ごとに異なり、お店の味を決定づける重要なものであることから
「仙台の牛タン焼き」を「牛タン焼き」たらしめている理由と言えます。
こういった徹底した品質管理が分厚いのに柔らかくて、風味の豊かな「牛タン焼き」を生み出しているわけです。「牛タン焼き」が仙台名物になるのも納得ですね。
BSE問題をきっかけに誕生した「牛たん振興会」
こうして仙台名物にまで成長し絶頂期を迎えていた仙台牛タンにある衝撃的な出来事が起こります。
平成13年9月に国内で発生したBSE問題です。
更に追い討ちをかけるように平成15年12月にはアメリカでもBSE問題が発生。
これによりアメリカ、カナダなどからの牛タンの輸入が完全にストップ。
原料相場が発生前に比べ数倍に高騰し、全ての牛たん専門店は赤字経営となり、廃業を余儀なくされる店舗が多数発生するなど大打撃を受けました。
仙台牛タンを襲った未曾有の危機に対し「仙台の食文化を守り、引き継ぎ、全国の人々に本当に美味しい牛たん焼きを食べてもらいたい」との思いから設立されたのが業界団体である「牛たん振興会」でした。
先ほども触れましたが仙台牛タン専門店にはお店毎に秘伝の技や調理法があり、「牛タン焼き」が仙台名物にまでなったアイデンティティと言えます。
それは裏を返せば各専門店がお店の味を守るために必死だったということもあり
横の繋がりが薄い「閉鎖的な業界」であるとも言われていました。
それがBSE問題を期に業界全体として「仙台牛タン」のブランドを守っていく為に活動するという流れが生まれたのです。
仙台牛タンが、BSE問題を乗り越え、再び「仙台名物」として復活できたのはそういった業界の人たちの思いがあったことを最後にご紹介しておきたいと思います。
牛タンに対する職人の熱い思いが「牛タン焼き」が仙台名物になった理由だったんですね!